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田中たかあきブログ

当たり前のことや基本をしっかりやることを大切にしてます。

「遠山の金さん」が暗黒裁判である理由

こんにちは、田中です。

実は 遠山の金さんって暗黒裁判なんですよ。

なぜかというと、金さん1人に全ての権力が集中しているから。

 

これは、「刑事裁判って誰を裁くためのものか」

 ということにすごく関係してます。

 

小室直樹によれば、刑事裁判とは被告を裁くためものではない

また、犯罪者を裁くためのものでもない。

 

そもそも、刑事裁判では、「有罪か無罪か確定するまでは、被告は無罪」と考えるのが近代デモクラシーの裁判の鉄則です。

 

たとえ、どんなに物的証拠があっても、いかにも有罪のように見えても、確定するまでは、被告は無実の人として扱わなければならない。

 

判決が確定するまで、犯罪者は存在しない

それゆえ、「犯罪者を裁く」という表現は本来ありえない、と小室は言います。

 

では、裁判で裁かれるのは誰か。

小室いわく、裁判で裁かれるのは、検察官であり、行政権力です。

行政権力の代理人である検察官が、裁判で裁かれる。

「刑事裁判とは、検察、すなわち行政権力を裁く場である」というのが、近代裁判の大前提。

日本人はこのことをよく理解できてないと、小室は言っている。

 

彼によれば、日本人は、裁判を「真実を明らかにする場」と考えている。

裁判をすれば、どんな悪事も裁かれて、真実が暴露される、と信じている。

 

しかし、近代裁判では、それは通用しない、と小室は指摘しています。

そもそも、近代裁判では「真実の探求」は、本来の目的ではない

 

極論すれば、真実なんてどうでもいい、事件の真相など、知る必要はない、とまで、小室直樹は発言している。

 

「事件の真相はどうでもいいなんて、問題発言だ!」

私もそう思う。

しかし小室によれば、そのようなセンスの人が多いから、日本はいつまでたってもよくならないのだそうだ。

 

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「遠山の金さん」が暗黒裁判である理由

小室に言わせれば、もし日本で悪書追放運動をするとしたら、真っ先に追放したいのが「大岡越前守」とか「遠山の金さん」の話だという。

 

なぜなら、この2つの話は、近代裁判を否定する問題ドラマだから。

 

例えば、遠山の金さんは、自分で犯罪捜査をして、証拠を集める。

そして自分で容疑者を引きずりだして、自分で判決を下してしまう。

ときには、無実の市民の弁護までする。

 

それゆえ、遠山の金さんは、刑事、裁判官、検事、弁護士の4役を1人でやってるわけだ。

これは本来、大問題だ。

 

なぜなら、金さんに全ての権力が集中しているから。

 

「遠山の金さんは悪いことはしない!」

彼は物語の主人公だから、悪いことはしない、と多くの人は考える。

金さんは神のように全知全能、悪いことはすべてお見通し、みたいな。

 

しかし、そんな完璧な人、立派な人はいない。

 

もし、金さんが悪い人で、無実の人を逮捕して告訴して、裁いてしまったら、どうなりますか?

まさに暗黒裁判。

 

それゆえ、遠山の金さんのような人がいては困るのです。

 

しかし、小室直樹によれば、「お上」をよほど信頼しているのか、日本人は今でも、検察官は悪を追求する善玉だと信じて疑わない

遠山の金さんと検察官は一緒だと、人々はなんとなくイメージしている

 

「検察=性悪説」が近代裁判の大前提

近代裁判と時代劇では、前提が180度違う。

時代激の場合、銭形平次も遠山の金さんも、完全な善人であり悪いことはしないという前提がある。

 

他方、近代の裁判では「検察官や刑事は悪いことはする可能性がある。国家権力を持つ人間は何をするかわからない」という前提がある

 

国家権力があれば、拷問をしてウソの自白をさせることもできるし、どんな証拠でもでっちあげることが簡単にできる。

誤認逮捕なんて日常茶飯事だと考えるのが、近代裁判です。

 

要するに、時代劇は性善説を前提にしていて、近代裁判は性悪説を前提にしている

 

有罪率99%の恐ろしさ

それゆえ、刑事裁判では、検察側に1つでも落ち度があれば、すぐに被告は無罪です。

 

例えば、少しでも法に違反する捜査をしたり、手続きにミスが1つでもあったり、真実の証明がちょっとでも不完全なら、検察は負けて、被告が勝ちます。

 

検察側に落ち度がないかを十分に調べるのが、裁判官の本来の仕事である。

 

それゆえ、裁判官は本質的には被告の味方なのです。

一般的には、裁判官は中立で公平な存在だとイメージされますが、基本的には被告の味方であり、検事の敵なのです。

このことを日本人はわかっていない、と小室は指摘しています。

 

「自分が考えてる裁判のイメージとはかなり違うなあ」

そうですよね。

 

日本のマスコミが、検察の調書は信用できる、警察の言うことが真実であるという前提で、権力寄りの報道をするのも、大岡越前や遠山の金さんのイメージが頭にあるからかもしれません。

 

でも、日本の警察が1つも間違いをしないということは、ありえない。

例えば、その証拠が、松本サリン事件です。

 

松本サリン事件で河野義行さんは容疑者扱いされました(河野義行さんは、私が隠岐高校で高校生だったころ、講演に来てくださったので、当時のお話を聞くことができました)。

 

警察の発表を真実であるかのようにマスコミが報道してしまうと、河野さんのような犠牲者が出てくる。

 

マスコミだけではない。

日本の刑事裁判では、実際に告訴された事件の中で、99%以上の事件が有罪判決を下されている。

 

つまり、検察に目をつけられて、訴えられたら、99%の確率で有罪になってしまう。

 

検察側に1つでもミスがあれば、被告は自動的に無罪になるのが近代裁判の鉄則なのだが、日本の裁判官は本当に検察官を裁いてくれているのか、被告の味方になってくれているのか、という不安が出てくるかもしれません。

 

ここで、刑事訴訟法の話に戻ってくるんです

 

「疑わしきは罰せず」が重要な理由

「刑事訴訟法って、刑法の付属品みたいなものでしょ?」

私も以前はそう思っていました。

 

しかし、それは大きな誤解であると、小室は言います。

刑事訴訟法は刑法より大事な法律だと、小室は言っています。

 

なぜなら、この法律は、刑事裁判で、検事を含む行政権力を縛るルールだから

行政権力がこのルールにちょとでも違反したら、すぐに被告は無罪。

 

検察側が守るべき法律は、他にもあります。

これらの法律は、検察側をいろんな形で縛っている。

だから、検察側はその法律に違反しないように行動する必要がある。

 

このことを、「デュー・プロセス」の原則と言います。

「適法手続き」と訳します。

わかりやすく言うと、手続きが大事、ということです。

 

 検察などの行政権力は、徹底的に法律に従う必要があり、ちょっとでも違反したら、裁判で被告は無罪になる。

このデュー・プロセスの原則を徹底してるのが、アメリカです。

 

アメリカの法廷小説が面白いのも、検事や警察がデュー・プロセスに従って行動する必要があるという制約があるからです。

 検事や警察がスーパーマンではないから、小説も面白くなります。

 

レイプ殺人者が無罪放免になった理由

デュー・プロセスが描かれている小説には、例えばヘンリー・デンカーの『復讐法廷』がある。

 

ある老人が、ジョンソンという黒人男性を射殺する、という話。

なぜ老人が黒人の男を殺したかというと、自分の娘がその男にレイプされ、殺されたから。

しかし、黒人の男は無罪放免になっている。

 

このことを許せない老人は、その黒人の男を射殺した。

それゆえ、その老人の裁判が始まります。

 

ここで大事なのは、なぜ老人の娘を殺した黒人の男が無罪放免になったか、ということ。

その理由が、デュー・プロセスなのです。

 

ジョンソンという名前のこの黒人は、アグネスという女性(老人の娘)をレイプし、強盗して、殺害したという容疑で警察に逮捕される。

 

ジョンソンが犯人であることは、誰が見ても明白でした。

なぜなら、ジョンソンはアグネスが当時見につけていたアクセサリを隠し持っていたし、彼女の体から彼の精液が採取されたから。

さらに、アグネスの爪に残っていた血液は、ジョンソンの血液と一致してる。

 

加えて、事件お前夜にジョンソンは、アグネスが殺された場所の近くで不審尋問を受けているから、彼にはアリバイもない。

 

「こんなに証拠があるなら、ジョンソンが犯人に違いないね!」

誰もがそう思いますよね。

もちろん裁判官もそう思いました。

 

しかし、裁判の結果はジョンソン無罪

なぜか?

 

疑わしきは罰せずの理由

その理由は、デュー・プロセスの原則を警察が破ったからです。

なぜなら、事件が起きた州では、仮釈放中の人間を警察が尋問するとき、必ず弁護士の立ち会いが必要であるという法律があったから。

 

実は当時のジョンソンも、別の事件で仮釈放中だった。

なのに、事件の夜、現場近くを歩いてたジョンソンを、警察はその場で尋問して、逮捕しちゃったのである。

 

弁護士がいない尋問と逮捕は、デュー・プロセスを犯している、とジョンソンの弁護士は主張した。

 

「そんなこと、どうだっていいじゃないか。精液や血液鑑定という確かな証拠があるんだから、ジョンソンは有罪だ」

そう思うかもしれません。

 

しかし、アメリカの法廷はジョンソンを無罪にしました。

どんなに彼の容疑がもっともらしく、彼が100%犯人であることを実証する証拠があったとしても、法廷は被告であるジョンソンの味方です。

 

デュー・プロセスの原則により、州法に違反した捜査当局はすぐに法廷から退場です。

検事が出したすべての証拠は却下され、ジョンソンは自動的に無罪になりました。

 

「デュー・プロセスは大事かもしれないけど、明らかにジョンソンが犯人なのに無罪だなんて!」

そう思う気持ちはわかります。

 

でも、もしこの裁判で裁判官が、「この裁判では、州法は関係ない」と言いだしたら、どうなるか?

 

警察が言うことは正しいかもしれないし、ジョンソンはたしかに犯人かもしれません。

でも、「警察は場合によっては法律を無視してもよい」という前例が生まれてしまったら、次からどうなりますか。

 

1人の犯罪者を逮捕するために法律が無視されたことによって、その後、無実の人たちが有罪判決を受けて刑務所にぶちこまれることがあってもいいのか?

 

「それはたしかに困るな・・・」

近代法の思想を一言で言うと、「1000人の罪人を逃すとしても、1人の無実の人を有罪にしてはならない」ということ。

 

 たとえ1000人の罪人を無罪にしてもいいから、無実の人が権力の犠牲になって、有罪判決を出されて牢獄にぶちこまれることだけは、絶対に避けなければならない。

権力の暴走を絶対に許してはいけない。

このような、近代法の思想から、「疑わしきは罰せず」という言葉も生まれました。

 

それゆえ検察側は、勝つためには犯罪を完璧に立証する必要がある

ちょっとでも疑問があってはダメだし、デュー・プロセスの原則も守る必要がある。

つまり、検察側はパーフェクトゲームをする必要がある。

 

当然、場合によっては、ジョンソンのように、犯行をした人間を無罪にしてしまうこともあるだろう。

でも、その害より権力が暴走する害のほうが、はるかに大きい害であると考えるのが、近代法の精神であり、デモクラシーの精神です

 

1人の罪人がする悪事よりも、国家権力や行政権力がする悪事のほうが、ずっと害が大きい。

近代裁判の原点には、「権力は悪である」という発想がある

だから、刑事訴訟法などで行政権力をぐるぐる巻きに縛る必要がある。

 

 

しかし、日本には、このような「法の精神」が定着していない、と小室直樹は言ってます。

刑事訴訟法がいかに大切な法律であるかを、マスコミも理解してない。

 

 例えば、刑事訴訟法475条にかんする問題は、そのことを示してます。

 

法務大臣が死刑執行して何が悪い?

「475条(1)死刑の執行は、法務大臣の命令による。(2)前項の命令は、判決確定の日から6カ月以内にこれをしなければならない。(以下略)」

 

この規定は、法務大臣に対する命令です。

刑事訴訟法は権力を縛るためのものであり、この場合は法務大臣を縛っています。

 

これが意味することは、裁判所が死刑判決を下して、それが確定したら、たとえ何があっても、法務大臣は6カ月以内に死刑執行の命令を出せ、ということ。

 

例えば、もし法務大臣が死刑に反対だったり、死刑囚を無罪だと思っても、それは関係ない。

法務大臣が勝手に裁判所の判決と違うことをしてはいけない。

 

だから、法務大臣は、機械のように何も考えず、裁判所の判決に従って死刑執行の命令を出せ、というのが刑事訴訟法475条の内容です。

 

でも、現実に法務大臣が死刑執行の命令を出そうとすると、それをマスコミが非難していることはおかしい、と小室直樹は言っている。

 

死刑を執行する命令を出す法務大臣こそ、刑事訴訟法に最も忠実である必要があるにも拘わらず、その法務大臣に対して、マスコミが「刑事訴訟法を破ってしまえ」と言っていることは間違っている、と小室は言います。

 

誤解のないように言っておくと、小室は別に死刑擁護論をしたいわけじゃない。

死刑に反対するなら、それは別にいい。

 

でも、死刑に反対なら、刑法を改正しようと考えるべきだ、というのが彼の考え。

 

マスコミは日本のデモクラシーや裁判制度をみずから破壊しているようなものであり、その異常さに気づいている日本人はどれだけいるだろう、と彼は言っている。

 

でも小室のマスコミ観は間違ってると私は思う

ちなみに私の意見としては、マスコミが権力の監視役だという前提が正しいのか疑問なので、マスコミが刑事訴訟法を無視した報道をすることは別にいいと思う。

というのも、テレビや新聞というのは、ビジネスだからだ。

商売でやってるわけであって、別に権力の監視役ではない。

だから、マスコミに対する小室の批判は間違っていると私は思う。