田中たかあきブログ

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自分を愛する理由

なぜ私は自分を愛するのだろう?とふと思った。

 

例えば、名誉欲があるのは私自身を愛するからだ。

私にとって名誉とは、他の人から賞賛されたり尊敬されたり、褒められたりすることだ。

 

要は、私は人に好かれたいのである。

人から好かれることに、快楽を感じて、気持ちいいと感じるのである。

 

また、名誉が欲しいということは、自分の名前が大勢に知られるとか、ある程度の人たちに肯定的に知られることを望む、ということだ。

私の名前が、人々に好意的に知れ渡っていることを、私は欲するのだ。

 

なぜ、私は人から尊敬されたいとか、評価されたいとか、自分の名前を評価されたいと思うのか?

(特に、自分の名前なんて、自分ではなくただの記号なのに、そんなものが評価されることをなぜ望むのか)

 

それは、私が自分自身を愛しているからだ。

私は「私」を大切にしていて、私というものをよりよくしたいと思う。

 お腹が減ったら食べ物を食べて快楽を得たいし、のどが渇けば水を飲みたいのと同じだ。

 

私は苦痛を受けるのが苦痛だ

逆に、人から馬鹿にされたくないし、嫌われたくないと私は思っている。

なぜなら、馬鹿にされたり嫌われると苦痛を感じるし、恥ずかしいからだ。

 

そう、人から馬鹿にされることは苦痛だ。

だから、私は苦痛を避けたいのである。

 

なぜ、私は苦痛を避けるのか?

それは、苦しいことが苦痛だからだ。

苦痛は苦しく、私はとにかく逃げたいと思う。

 

なぜなら、私は自分自身を愛しているから。

 

もちろん、身体的な苦痛の場合は、もはや反射神経的に、自動的に苦しいので、もはや「私」なんてものは関係ないかもしれない。

 

とにかく、痛みが存在すれば、私はその痛みを消したいと思う。

 

快楽と苦痛から「私」という意識が生まれる

私は私を大事にしている。

なぜか?

苦痛を避け、快楽を得たいからだ。

 

もし、苦痛もなく、快楽も何もないならば、私は自分をこんなに大事にするだろうか、よくわからない。

 

結局のところ、私は快楽と苦痛によって支配されているんじゃないかな、と思う。

 

快楽を得て、苦痛を避けたい、ということから、「私」という自己意識を意識するようになり、私は私自身を愛するようになる。

 

そもそも、私が私を愛するとは、どういうことだろう。

私は何を愛しているのか?

 

人格を愛しているのか、肉体を愛しているのか。

おそらく、心と体の両方を愛しているだろう。

 

例えば、恋愛で蝶美人でスタイルもいい女性から、愛されたいと思うとき、自分の性格や考え方を嫌われたくないと思うし、顔なのどの肉体を嫌われるのも嫌だと思う。

つまり、私自身の心と身体を愛してほしいと思っている。

 

だから、私は私の心と体の両方を、愛しているのかもしれない。

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なぜ、自分の心と体を愛するのか。

 

それはおそらく、私は精神的な快楽と、肉体的な快楽を得たいと思ってるからだ。

そして、精神的な苦痛と肉体的な苦痛を避けたいと思うからだ。

 

そう考えると、「私」という自己意識が先にあるというよりは、快楽と苦痛が先に存在する、という感じがする。

 

精神的な快楽と肉体的な快楽を得たい、という欲望がある。

 精神的な苦痛と肉体的な苦痛を避けたい、という欲望がある。

 

どちらも、欲望だ。

快楽と苦痛に対する欲望があるから、私という自己意識が生まれる。

 

すべては快楽と苦痛tの欲望であり、0と1で表現できる。

人間の脳から考えると、人の脳は、快楽と苦痛の0・1で成り立ってるかもしれない。

 

 人の脳は、快楽と苦痛の0と1で、プログラミングされてるかもしれないわけだ。

そして行動も、快楽と苦痛の0・1を選んで行われるのかもしれない。

 

人が使う 「善い」とか「悪い」とかいう表現も、快楽と苦痛に対する欲望によって決まっていることがほとんどだ。

 

人は自分が快楽を得る物事に対しては、「よいものだ」と評価する傾向がある。

例えば、自分にとってお金が儲かることや、国の政策は、「よいもの」だと言われやすい。

 

逆に、人は自分が苦痛を受けることに対しては、「悪いものだ」と評価する傾向がある。

例えば、人に裏切られたり、嘘をつかれて500万損した場合など。

 

「自分にとってこれが本当によいことだろうか?」と考えるときも、損得を再考しているわけだ。

 

いろんな欲望どうしが一番になろうと争っている

 さて、話をもどして、なぜ、私は快楽を求め、苦痛を避けるのか?

なぜ、と理性的に理由を考えても、もはや本能としか言えないだろうが。

 

快楽と苦痛は、理屈ではなく、感情の話だ。

快楽を得たいという欲望も、苦痛を避けたいという欲望も、感情だ。

 

そういう感情がある、としか言いようがないかもしれない。

とにかくそういう感情が存在している。

そしてその感情が、私という意識をつくりだし、支配している。

 

逆らうすべなどない。

逆らったとしても、逆らっているのは誰なのか?

なぜ、逆らおうとするのか。

支配されるのが苦痛だからだろうか。

結局それなら、2つの苦痛の感情が争っているにすぎない。

 

名誉心を求めるのか、女性にモテるのを求めるのか、と悩むことも、複数の欲望が対立しているだけだ。

いくつかの欲望どうしが、自分こそが支配者であろうと戦っているのだ。

 

私という自己意識は、いろんな感情がたくさんあって、その中で、感情どうしが戦っているのかもしれない。

自分こそが一番の感情である、という戦い。

自分こそが一番の欲望である、という欲望どうしの戦い。

 

 例えば、名誉心という欲望が他の欲望に勝つかもしれないし、性欲が他の欲望に勝つかもしれない。

 

そして、その人間の中で、どんな欲望や感情が一番になり、他の欲望を抑圧するかによって、その人独自の人格が生まれるかもしれない。

つまり、その人独自の「私」という自己意識だ。

 

 私を愛するとは、欲望を愛することだろうか

そう考えると、私が自分を愛するっていうのは、もしかしたら欲望を愛することかもしれない。

ある特定の欲望の肯定をすることが、「その時点での」自分を愛するということ。

もちろん、他の欲望が出てくれば、また違った「私」になるかもしれない。

 

逆に言うと、ある特定の欲望を否定することが、「その時点での」私を愛さないこと。

別の欲望を選ぶことによって、また別の「私」になる。

 

そもそも快楽や苦痛の欲望とは何だろう

そう考えていくと、快楽と苦痛にたいする欲望ってなんだろう、と思う。

「~が欲しい」とか「~を避けたい」と思うわけだが、なんでそんな感情があるんだろう。

 

あるいは、なぜ欲望を満たそうとするのか。

欲望を満たしたいという欲望は、何それ、どんな存在だろう。

 

遺伝子にプログラムされた仕組みだろうか。

エネルギーみたいなものだろうか。

 

・・・みたいなことをちょっと考えた。

「何を青臭い!」みたいに言われるのは承知してるよ。