田中たかあきブログ

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国のために子どもを作るべきか、自分の自由とか地球を重視するか

私は結婚もしたくないし、子どもも作りたくない。

なので年をとってら年金を受け取らないようにしようと考えているし、医療保険などもなるべく利用しないようにしている。

 

しかし本当にそれでいいのか、子どもを作るべきかどうか、私は3つの観点から悩んでいる。

 

1つは、国家の利益を考えるという観点。国家のためには子どもを作るべきだと思う。

2つめ、自分の好きなように生きるという観点。つまり個人の自由を重視する観点で、この視点だと、私は結婚もせず子どもも作らず生きたい。

3つめに、地球の人口が80億人を超えていて、地球全体では人口過剰だという観点。

 

どの価値観を重視するかによって、子どもを作るべきかが変わってしまうので、ウーンと悩んでいる。

全体主義で生きるか、個人主義で生きるか。

 

まず、1つめの観点だと、日本が少子化になると経済力とか軍事力とかいろいろ国力が減ってしまい国家に迷惑がかかることを考えたら、無理にでも子どもを作って育てるべきなのかな、と思う。

適度に国民が多ければGDPとか軍事力で有利だ。

もちろん中国みたいに人が多すぎると、国がバラバラになりやすいから、多すぎもよくないけど。

 

日本の先祖の人たちが戦争とか一生けん命戦って日本を守ってきたことを考えると、国のために子ども作るべきかなあとは思う。

自分だけ楽しようなんてずるいし、非国民だと言われてもしょうがないのかなあ、昔の人のこと考えたら無理にでも子ども作らないといけないかな、と。

 

ちなみに、年金制度は別に無くせばいいと思うので、年金制度を続けるために子どもを作る必要はないと私は思う。

 

次に2つめの観点から考えてみると、自分の自由を重視して生きるなら、私は子どもを作りたくない。

まず、生まれてくる子どもに申し訳ない。

この過酷な世界に生み落としてしまうのはかわいそうな気がする。

 

あと、単純に自分の時間が無くなるとが嫌だというのが本音だ。

これはかなり大きい。

 

それと、3つめの観点で、地球の人口が80億人超えててどう考えても多すぎなこと考えたら、自分が子どもを作ると、地球全体では迷惑かなあと思えてしまうのだ。

他の国で人口増えてるから、自分が子ども作らないことで調整というかバランスとれるかなと思うわけだ。

 

あと、マルサスの『人口論』読んだら、いくら食料増えて経済的に世界が豊かになっても、人口がまた増えたらまた食料とか足りなくなって結局困る、みたいなこと書いてあって、ああやっぱ人増えすぎたらいかんのかあ、って思った。

 

ここには、全体と個の対立もある。

全体を重視するか、個を重視するか。

もちろんどちらもバランスよく考えるのがベストなんだろうが。

 

子どもを作るほうが正しいのか、作らないほうが正しいのか?

いや、そもそも「正しい」とはどういう意味なのだろうか?

というか、そもそもなぜ私は正しさを「求めている」のか?

別に正しくなくてもいいじゃないか、正しく生きる必要ないじゃないか。

 

なぜか私は「正しく生きたい」という欲望を持っている。

おそらくは、集団の中で有利に生きるという目的が関係しているのかもしれない。

 

とにかく、何が正しいのか、どの価値観を1番大事だと考えるかによって答えが変わるからややこしい。

 

「子どもを作るべきだ」とか「子どもを作らないのは非国民」という考えは、もちろん国家のためという観点から考えると正しい。

実際、「独身なの?非国民だね」と言われると悲しい。

「国のお荷物だね」とか「国の役にたとうと思わないのか」と言われたら、何も言い返せない。

「他のことでできるだけ国のために働きます、それと自分が年とったとき年金は受け取りません、医療保険もできるだけ利用しません」と言うことしかできない。

 

他方、自分の自由を優先するという観点から考えると、子ども作らず時間の自由を確保したい。

人から軽蔑されたり見下されたりするのはつらいけどそこは我慢できる。

 

そして、地球の人口は増えすぎだという観点を重視すると、別に子ども無理に作らなくてもいいかなあとも思える。

 

少なくとも、何を大切に考えるか、何を望むのか、何を1番に欲するのかによって、何が正解か変わる。

 

そもそも、なぜ正しくなければいけないのか?という疑問もある。

このばあいの「いけない」とはどういう意味だろうか。

 

「いけない」という言葉を使う時点で、私は規範とか正しさという価値観を前提にしている。

「正しいことをしたい、正しくないことはしたくない」

そんな欲望を私は持っているようだ。

 

なぜなら、正しさを得ることによって、権力が欲しいからかもしれない。

自分は正しいという免罪符が欲しいのだ。

自分は正しいというチケットを手に入れて、権力を持ちたいわけだ 。

 

このことをニーチェは「権力への意志」とか「力への意志」と呼んだ。

そう、自分は力が欲しいのだ。