読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

田中たかあきブログ

ノージャンルのブログです

好きじゃない人を愛せるか

好きじゃないのに愛せるか

結論から言うと、相手の人を好きじゃなくても、自分のためとか義務とか同情心によって、相手を愛することはできると思う。

しかし、同じ愛でも必死さが違うだろう。

 

愛するという意味の定義によって変わるので、結局は定義しだいだが、考えてみる。

 

まず、基本的には、自分がその人を全く好きになれないなら、少なくともその相手は自分にとって重要ではない。

重要ではないから、大切だとは思えない。

大切ではないから、別にその人がどうなろうが基本的にはどうでもいいはずだ。

したがって、基本的には、相手を好きじゃないなら、別に相手を愛することはない。

 

好きじゃないけど自分のために人を大切にする場合

大切にはするが、別に相手のことは好きじゃないし愛してない状態がありうる。

それは、自分のために人を大切にする場合だ。

 

例えば、人が困っていたら助けるほうが、人間的に優れていると思うし社会的にも評価されるし、満足できるので、人を大切にする場合だ。

あるいは、誰であれ人を大切にしたほうが、神様にほめられるから、とか。

なので、その場合、別に相手のこと好きじゃないし全く愛してもいないけど、自分を高めるために相手を大切にする、ということになる。

 

大切にする行為を愛すると定義するなら、一応愛していることにはなるが。

少なくとも、別に相手の人に魅力は感じないってことだ。

つまり、義務感に近い。

自分自身を肯定するために、自分は優れていると評価するために、人に新設にして、人を大切にする。

 

これは、同情とは違うのか?

結論から言うと、同情とは違う。

なぜなら、相手に対してかわいそうとは思わないから。

 

同情することが、「同情してる自分かっけーっ」と思いたいためなら、自分のために同情することになるので、似ていると一見思える。

でも、同情は、相手のことをかわいそうって思うことが条件だろうから、同情とはちょっと違う。

 

相手のことをかわいそうとも何とも思わないけど、自分が満足するためには、誰であれ人を大切にしたいと思っている状態である。

 

同情で愛する場合

同情で人を愛する場合は、相手のことを好きじゃなくても可能だ。

まず、同情することで自分はいい人だと思いたいためなので、自分を満足させるためである。

そして、相手にたいしてかわいそうという感情を持つが、別に好きだとは思わないし、魅力も感じない。

義務感もあるだろう。

 

また、同情する場合、相手を自分より劣っていると思うからかわいそうと思うはず。

したがって、同情することは相手を軽蔑することと一体である。

したがって、相手を軽蔑しつつ相手を大切にする。

 

だから、同情によって人を大切にすることは、自分のためであり、相手がかわいそうだからであり、相手を軽蔑する状態である。

なので、一応相手を大切にはするので、一応愛しているとは言える。

 

人類愛的な愛であり、相手がだれであってもいい。

特に相手に執着もない。

 

相手のことが超好きな場合の愛

その人のことが超好きで、他に変わりがいないと思うほど魅力を感じる場合の愛は、必死さが違う。

絶対にこの人を失いたくないと思うはず。

 

この愛は、熱烈な愛だ。

相手に魅力がない場合の愛とか、人類愛的な愛とは激しさが違う。

 

絶対に相手を失いたくないという執着心、他のものでは替えが効かないという緊張感、それこそが、愛の感情を高める。

 

たとえ相手のことが好きでも、程度の違いがある。

少し好き、まあまあ好き、けっこう好き、かなり好き、本当に超大好き、などの程度の違いがあり、そのレベルごとに愛情の必死が変わるし、失いたくないという思いの強さも変わるだろう。

 

 まとめると、相手のことが嫌いであっても、人に親切にすることで自分がいい人だと思えるというように、自分にメリットがあるなら、一応愛せる。

また、義務とか同情心によっても、人を愛すことができるだろう。

 

そして、相手を超好きである場合の愛との違いは、絶対に失いたくないと思うかどうかの違いがある。

 

好きじゃない人でも愛せるが、相手の程度はそれぞれ違うだろう。