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田中たかあきブログ

ノージャンルのブログです

自己愛があるから他人を愛せる

愛とは何か

あらゆる愛は、自分を愛するからこそ成立すると思う。

なぜなら、「愛したい」という欲望を持つからこそ、人は何かを愛するからだ。

そして、相手を愛する状態のほうが、愛さない状態より好ましいと思うから、人は他人を愛するからだ。

 

もし、相手を愛しても愛さなくてもどっちでもいいと思うなら、それは相手を重要視していない証拠であり、相手に執着していないからである。

そして、 その人を愛さない状態よりも、その人を愛する状態のほうが、自分にとって好ましいからこそ、人は相手を愛する。

 

その人を大切にしたいと欲するからこそ、人は相手を愛する。

自分の欲求を満たしたいという自分に対する愛があるから、そのために他人を大切にしようと思える。

 

自分にメリットがあるから愛せる

例えば、愛する恋人がいるとしよう。

その恋人が元気に生きていること、相手が存在していることを望んでいるとしよう。

その場合、その恋人が存在しているほうが、いない状態よりも自分にとって望ましいと考えるからこそ、人はその恋人を愛するわけだ。

 

つまり、そのほうが自分が嬉しい、喜ばしいことだから、その恋人が元気であることを望み、相手を大切にし、愛するわけだ。

 

人間にたいする神の愛だって、神が人を大切にしたいと思うからこそ成立する。

人間が楽しく元気に生きていること状態を望むからこそ、神は人を大事にする。

つまり、人間を愛することによって自分の欲求が満たされるからこそ、神の愛が生まれる。

 

 相手が悲しんでいると、自分も悲しい。これも、自分を大切にするからこそだ。

 

よく、「自分を愛せない人間は他人を愛せない」と言うが、なるほどこれはそのとおりだと気づいた。

 

もし、自分がどうでもいいなら、自分の欲望を満たしたいとも思わない。

となると、相手がいてもいなくても、相手が元気じゃなくても、どっちでもいいや、ということになる。

その結果、別に相手を大切にしようとは思わないし、愛することもない。

 

満ち足りない気持ちが愛を生む

欠乏が、欲望を産む。

何かが満たされないというモヤモヤした気分が、それを満たそうという欲望を生み出す。

だから、欠乏感こそ、愛の母だ。

「満ち足りない」という気持ちがあるからこそ、欲望が生まれ、何かを愛することで自分の欲求を満たそうと思える。

 

もし、全て何もかも満ち足りてしまったら、恋人がどうなろうとどうでもよくなり、執着もこだわりもないから、愛も消える。

 

欲しいものがいつでも手に入り、決して失うことがないならば、それを欲しいという欲望は消える。

だから、人を愛したいという欲望を持つためには、「失うかもしれない」という欠乏感が常にないといけない。

 

相手を愛するには、その相手をもしかしたら失うかもしれない、という緊張感が必要なのだ。

 

執着こそが、愛の源泉である。

自分への執着から生まれる相手への執着。

 

では、なぜ自分を愛するのだろうか?

それは、生きることを愛するからだろう。

生を愛する、だから、自分を愛する、ので、他人を愛せる。

 

何かを愛せることは、自分を肯定することであり、自分を祝福することだ。

そして、あなたが愛するものが、あなたの欲望を特徴づける。

あなたが愛する対象が、自分の存在を特徴づける。

 

自分が何を愛しているかを知ることは、「私」を発見することだ。

私とは何か?それは、自分が何を愛するか知ることによって、鏡のように明らかになる。