田中たかあきブログ

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やがて死んで永遠に無になり二度と生き返らないってよく考えると怖すぎ

よくよく考えてみれば、せいぜいあと数十年したら、自分は死んで、そして永遠に無であるというのは、ショックというか、空しいというか、世界自体が消えてしまうような独特の恐怖がある。

最近また急にそう考えるようになってきた。

 

私という意識は消えてしまい、今まで生きてきた中で体験した記憶も全て失われる。

イメージとしては、毎日夜に眠って、スッと眠りに落ちて意識が無くなる感じに近いのかな。

 

世界にたいして何も感じることも考えることもできなくなる。

うれしいとか悲しいとか苦しいとか暑いとか気持ちいという感情も消える。

 

というか、感情が消えたことすら気づけない。

気づくことさえできない。

 

要するに真っ暗闇というか、無である。

もちろん私が死んだあとも世界は動き続けて、人々は楽しく生き続ける。

 

しかし、自分という意識はもうずーっと何十億年も、何百億年も、1兆年も、未来永劫に無だ。

二度と生き返らない可能性が高い。

 

普段そんなこと考えないが、じっくりと反省してみると、これはけっこうきつい。

何がきついって、今まで生きて経験してきた思い出や記憶が全て消えることだ。

そして、世界を感じること自体ができなくなるということ。

感情自体がなくなるということ。

 

「何を青臭い!」と言われるのは承知だが、そんなこと言ったって恐ろしいんだからしょうがない。

「もっと大地に足をつけてよく考えてみろ・・・」などと言われるだろうが、しゃらくせえや、という感じだ。

 

よく仏教では、「自我に執着しているから恐怖が生まれるのだ。世界は空である。自我など存在しない」

などというが、私という意識が存在しようが存在しなかろうがそんなことはどうでもいい。

 

存在しなくたって、実際に私は嬉しいとか悲しいという感情を思っていて考えることができることは事実である。

「私は考える、私は存在する」って言ったデカルトさんに拍手したいね。

デカルトさんの言うとおりですわ。しびれる言葉だ。

 

この考える私が消えて、もう絶対に二度と考えることができなくなるっていうのが悲しいんだよな。

私が消えちゃうってことがだよ。

 

こう考えるきっかけになったのは、中島義道さんが「どうせ死んでしまうのだから何をしてもむなしい」みたいなことを本で書いてたからだ。

正直、かなり鋭い指摘なんだよなあ、これって。

やっぱりここに行きついてしまう。

永井均さんが〈私〉の独自性についてなんか書いてるけど、ああいうのとはまた違う。

 

よく宗教で、天国とかあの世とかの話が出てくるけど、そう考えたくなる気持ちすごいわかるわ。

天国とかあったらどんなにうれしいだろう。

なぜって、感情を失わずに考えることができるから。意識があるから。

 

もちろん、天国に行っても、嫌いな人とかいたら人間関係疲れそうだからそれはそれで嫌だが、まあどうでもいい。

 

このようなことを考えると、やっぱ生命って何なのって疑問に行き着くのかね。