田中たかあきブログ

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「幸福」という言葉は人を騙す

「幸福」とは何か

「幸福」という言葉に対応するもの

言葉は、何かその言葉に対応する物があることを想像させる。

「幸福」という言葉も、それに対応する「何か」が存在するんじゃないかと人に思わせるパワーを持っている。

「幸福」という言葉があるからには、それに対応する何かが存在するはずだと。

だが、そもそも「存在する」とはどういうことだろう?

 

なんとなく、うれしい気分のときには、人は幸せという言葉を使う傾向がある。

しかし、「幸福」という名前のインパクトが強すぎて、これが本当に幸福なのか?という疑いを生み出す。

 

「これは不完全な幸福ではないのか?私は完全な幸福が欲しい」

「本当の幸福はこれじゃない。私は本当の幸福を手に入れたいのだ!」

幸福という観念が指し示す、何か「幸福それ自体」が存在するはずだと。

幸福のイデアがあるはずだと。

 

しかし、「本当の」とはどういう意味だろう?

この、「本当の」という言葉も厄介な概念だ。

もしかしたら、「本当の」とか「完全な」という概念が、人を騙しているのかもしれない。

 

さらに人は、「幸福とは何か?」と考えだす。

しかし、幸福について全く何も知らないならば、何について考えればいいのかわからないから、「幸福とは何か?」と問いかけることすらできない。

 

逆に、幸福とは何か知っているなら、すでに知ってるんだから、幸福とは何かと問う必要もない。

 実際は、ある程度わかってはいるけど、よくわからない状態だろう。

人々が「幸福」という言葉をどのように使っているのかを調べるのがまず必要だ。

 

幸福は快楽

私の考えでは、快楽とか嬉しい気持ちとか、そういう気持ちのときに、人は「幸福」という言葉を使ってるように見える。

なんとなく、うれしい気持ちのときは幸せだと言いたくなるし、快感を感じるときには幸せだと人はつぶやく傾向がある。

 

そして、快楽とか嬉しさという感情には、質や量の違いもあるだろう。

ちょっとうれしいとか、超気持ちいとか、強度や量の度合いの違いがある。

 

快楽は、欲望が満たされた状態ということもできるから、欲望をどれくらい満たせるか、ということが、幸福かどうかを決めるかもしれない。

 

幸せのためには欲求不満が必要

そして面白いのは、欲望は、満たされてしまうと一時的に消えることだ。

例えばお腹いっぱいになれば食欲は一時的に消える。

お腹がスクからまた食欲が出てきて、料理を食べたときに喜びを感じる。

 

だから、欲望を満たすという快感を手に入れるためには、何かが欠けている必要がある。

何かが満ち足りない、何かが欠けている。

その何かを手に入れたときこそ、欲望が満たされたときであり、快楽であり幸福なのだ。

 

それゆえ、幸福を手に入れるためには、飢えている必要があるのだ。

何かが足りないこと、何かが欠けているという飢餓状態が、幸福の源泉である。

 

「幸福であることの危険。―さて今ではすべてがうまくいった。これからはわたしはどんな運命でも愛するであろう。―しかし誰か、わたしの運命になりたい人はいないか?」フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』

 

「満ちたり」を得るためには、欲求不満が必要である。

何もかも満ち足りてしまった人は、幸福を感じることができなくなるかもしれない。