田中たかあきブログ

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須藤凛々花の結婚はニーチェ哲学だ

須藤凛々花 ニーチェ哲学

須藤凛々花さんが結婚発表して大衆から叩かれているが、この結婚宣言はまさにニーチェ哲学を愛する須藤さんらしい。

 

ご存じのとおり、須藤凛々花さんは哲学者ニーチェを尊敬している。将来の夢は哲学者になることらしいが、今回の結婚宣言は、まさにニーチェ的な生き方であり、ニーチェ的な意味での哲学者的な行動だ。

 

ニーチェ哲学は、「自分が欲すること」を貫く、という考え方である。

他人の基準(欲望)の「善いこと」と、自分自身の価値基準(欲望)の「善いこと」は同じではなく、自分だけの善がある、というのがニーチェ哲学の核心である。

 

他人の欲望によって自分の欲望を失うのではない、「私」の欲望や理想を目指す=憧憬の矢を放つのだ。

 

私の欲望を発見すること、それが、「私になる」ことであり、「私を発見すること」である。

 

「人は自分の美徳によって罰せられることが多いものだ」(ニーチェ『善悪の彼岸』)

 

それは、道徳とか倫理とは対立することもある。

他人から見れば、道徳的に悪いことや倫理的に悪いと評価されるかもしれない。

 

しかし、「私」自身の価値基準では、それはむしろ「善いこと」なのだ。

「わたしたちが自分の悪をみずからの最善のものと呼ぶ勇気をもてたとき、それが人生のもっとも偉大な時期である。」(ニーチェ『善悪の彼岸』)

 

 

「~するべきだ」「〇〇するのが人としてあるべき姿」などといった、他人の規範やルールによって自分を失ってはならない、自分自身の規範を発見せよ、それがニーチェの考え方だ。

 

「良い評判を得ようと、―自分を犠牲にしなかった者がいるだろうか?―」(ニーチェ『善悪の彼岸』)

 

他人が決めたルールや「~すべき」という規範にしたがうのではない。

「私は~すべきだ」「私はこうあるべきことを望む」と、「私」のルールを発見する。

私の欲望、私のルールを発見すること、それが「私」を発見することである。

 

「罪を犯してはならないと言うときほど、自分の神に不誠実であることはない」(ニーチェ『善悪の彼岸』)

 

ニーチェの名言で、「神は死んだ」という言葉があるが、これは、「唯一絶対の善」とか「万人に当てはまる善」というものが存在しなくなった、という意味である。

善は、いろんな基準ごとに、無数にある。評価の基準は人それぞれで、その基準ごとに、何が善いことか、という判断も相対的に変わる。

 

つまり、「神は死んだが、神々は生きている」ということだ。

 

須藤さんは、1人の男性と結婚したいという、「自分自身」の欲望を貫き通した。

それは、メンバーやファンからは批判されることかもしれないし、悪いことと評価されるかもしれない。

 

しかし、須藤さん自身にとっては、この結婚宣言は「善い」ものでさえあるのだ。

なぜなら、須藤さんの理想や欲求という、須藤さん自身の価値基準にとっては、それは善いことでありうるから。

 

「未来の哲学者はおそらく「私の判断は私の判断だ。他人には、これをたやすく自分のものにする権利などない」と語るだろう」(ニーチェ『善悪の彼岸』)

 

まさにニーチェ的精神の人だなあと私は思った。

他人の欲望や他人の「~すべき」という規範ではなく、自分自身の規範を信じる。

 

「他者のために」とか「自分のためではなく」という感情には、必要以上に多くの魅力があり、甘美なものがある。これについては二重の意味で疑い深くなり、次のように問うべきなのだ。「それはもしかすると―誘惑なのではないか。」これらの感情は気に入るものなのだ―この感情を抱く者にも、その果実を味わう者にも、そしてただ眺めているにすぎない者にも気に入るのである」(ニーチェ『善悪の彼岸』)

 

アイドルグループにたいしては、須藤さんの行動はたしかに迷惑なことだったろう。

その意味では、彼女は悪いことをしたのだ。

しかし、彼女自身の欲望や理想にとっては、そうではないかもしれないのだ。

ある価値評価の基準にとって悪いことが、他の基準では善いことかもしれないのだ。

 

ニーチェ哲学では、他人の規範にひたすら耐える段階のことを、ラクダの精神という。

次に、他人の規範を拒否する段階を、獅子の精神という。

最後に、自分自身の欲望や規範を発見する段階を、子どもの精神という。

 

自らの規範や法を打ち立てること、自分に自分だけのルールを命令する者、それが子どもの精神であり、ニーチェが言う「真の哲学者」である。

 

「しかし真の哲学者たるものは、命令する者であり、法を与える者である。真の哲学者は「こうあるべきだ!」と語る。」(ニーチェ『善悪の彼岸』)

 

他人から規範やルールを与えられるのではない。自分で規範を打ち立てるのだ。「私はこうあることを望む」という、自分独自の趣味を発見するのだ。

 

須藤さんは獅子の精神から子供の精神へと進んで行ったのだろうか?

ニーチェの哲学は反社会的であるし、危険なものなのだ。

 

「だが、これが―私の趣味である。―よい趣味でも悪い趣味でもなく、私の趣味である。私は、私の趣味をもはや恥とせず、ましてや秘めることはない。私に「道」をたずねた者に私はこう答えた。「これが―私の道だ、―きみたちの道はどこか?」と。万人向きの道など、存在しないからだ。」(ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』)

 

総選挙で結婚を宣言した。アイドルではなく結婚を選んだ。

これが須藤さんの趣味である。他の誰の趣味でもない、彼女の判断であり、須藤さんの意志の力である。

それは批判を巻き起こすものであり、理解されがたいものなのだ。