田中たかあきブログ

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自分を否定されるとなぜ苦痛なのか

自己否定の苦痛と自己肯定の快楽

自分を否定されるとなぜ嫌な気持ちになるのか

自分の悪口を言われたり馬鹿にされたり、見下されると、嫌な気分になります。

自分を否定されると、苦痛を感じて、なんとかこの苦しみを避けたいと思います。

 

なぜ、自分を否定されると嫌な気分になるのでしょうか。

なぜ快感ではなく、苦痛を感じるのでしょうか。

 

悪口を言われたり馬鹿にされたときに、

「よっしゃあー自分を否定された!きーもちいー!うれしい、幸せだ」

と喜びに震える人はいません。

たいていの人は嫌な気持ちになり、怒ります。

 

リストカットなど自傷行為をする人も、軽く手首を切ったりするだけで、本当に致命的な怪我を自らしようとはしません。

進んで自分を否定しようとする人はいません。

 

逆に、褒められたり愛されたり、大切にされたり笑顔で親切にされると、嬉しい気持ちになります。

自分を肯定されると、苦痛ではなく、快感を感じます。

 

なぜ、自分を肯定されると快感を感じ、自分を否定されると苦痛を感じるのか。

とても不思議です。

 

生命が自分の子孫を残すには、自分を否定されるより自己肯定されたほうが有利だからかもしれません。

もしそうなら、進化論とか遺伝子の戦略で説明できます。

 

そうなると、バカにされたり見下されて自分を否定されて苦しい気分になるのは、遺伝子とか生命による、無意識的な感情であると言えます。

自分を否定されるのを嫌がるのは、本能だということになります。

 

なぜ苦痛を避けたいと思うのか

そもそも、なぜ苦痛を避けたいと思うのでしょうか。

苦痛という意味自体が、避けたいものという意味を含んでいるのでしょう。

避けたくない苦痛なんて、あまりないですからね。

 

例外は、ドMの人が女の人に足で踏まれて喜ぶくらいでしょうか。

でもSMプレイに場合も、何かしらの快楽は感じているはずです。

 

SMプレイで痛いことをされて快楽を感じるドMの人を観察すると、苦痛と快楽がセットであるという面白い現象を発見できます。

苦痛にもかかわらず、快楽も存在している、これは不思議です。

 

リストカットなど自傷行為をする人も、自分で自分を傷つけるという、特殊な行動をとります。

 彼らが自傷行為で快楽を感じるのかは謎ですが、もし快楽を感じず、ただただ苦痛を感じているだけなら、これは興味深いことです。

 

苦痛を避けたいと思わないことは可能か

もう1つ考えたいのは、苦痛を避けようと思わないことは可能か、という問いです。

 

苦しいことを、避けようともせず、他の快楽でごまかすこともなく、ドMの人のように他の快楽とセットになることもなく、苦しいことをただただ感じるだけ。

そんなことができるでしょうか。

 

やはり、苦しいという概念自体が、苦しいことを避けたい、という欲求を含んでいる気がします。

 

苦しいのに避けようとしないなら、それは苦しみではない、前提があるのかもしれません。

苦しいのに、それを嫌だと思わないなら、そもそもそれは苦しみじゃない、という前提があるのかもしれません。

 

苦しみという感情の謎

苦しい、嫌だ、という気持ちは、不思議な存在です。

机やスマホなど、物理的に目に見える物ではありません。

でも、苦しいという気持ちは、たしかに、ある独特の意味で存在しています。

 

存在するという定義をどう定義するかで、苦しみが存在するか存在しないかは変わりますけどね。

 

私が苦しい、嫌だと考えるとき、私は苦しいという気持ちを持っています。

苦しいとか思っていたけど、実は苦しくなかった、ということはあるでしょうか。

そのときは苦しかったけど、今は苦しくない、ということはよくありますが、同じ時間に苦しいと感じるけど実は苦しくない、ということは少ないです。

 

一方で、苦しみが快楽を強くするスパイスでもある、という考えもできます。

苦しみが、快楽の気持ちをより強調するのです。

コントラストがあると、より違いが明確になりますからね。

 

皮肉なことに、苦しみを感じることは、生きている証でもあります。

苦しみのない生を想像することは困難です。

もし苦しみがなかったら、快楽の気持ちも薄まりそうです。

 

快楽を感じるためには苦痛がある程度ないといけないでしょう。

ところで、なぜ快楽を人は求めるのでしょうか。

快楽なのに欲しいと思わないなら、それはそもそも快楽ではないと言えるかもしれません。

 

快楽という感情も、苦しみと同じくらい、不思議な気持ちです。

快楽という感情が無ければ、人の人生はひどく味気ないものになるでしょう。

というか、生きてて何の喜びもないですね。

 

喜びや苦しみを持つ生命という存在の謎

喜びや快楽や苦痛が存在すること自体が、生命それ自体だと言えるかもしれません。

なぜ、快楽と苦痛が存在するのか。

なぜ快楽を欲するのか。

 

この問いは、そもそもなぜ生命は存在するのか、生命とは何か、生命の目的は何かという問題に行き着きます。

 

しかも、この問いを考えるのは、生命である自分が考えるのです。

生命である者が、生命の存在について考える。

自らの存在を、自ら問う。

これは、ドイツの哲学者イマヌエル・カントが「超越論的」と表現した思考方法です。

「内在的」とも言います。

 

例えばカントの場合、『純粋理性批判』で、理性によって理性自身を批判する、という試みをしました。

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、言語によって言語とは何か考える、という試みをしました。

ハイデガーは、存在者とは何かを、存在者が考える、という思考方法です。

 

しかし、そもそも、「~とは何か」という問いは、何を問うているのでしょうか。

それは、何か思考できているのでしょうか。

何か考えているようで、実は何も考えてないなんてことになったりしないのか。

デカルトが、明晰な思考の土台を建てようと、あらゆるものを疑ったのも無理ありません。

 

そもそも、思考自体が非常に曖昧で、謎なのです。

思考という、よくわからないもので、生命という存在や、快楽や苦しみという存在を考えなければなりません。

 

それが人間の限界かもしれません。

カントが『純粋理性批判』で書いたように、それが理性の限界であり、真理の限界なのか。

 

それとも、言語や表現方法に頼らない思考ができのでしょうか。