田中たかあきブログ

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1つの姿に固執すると他の観点が見えなくなる

1人の人物に固執すると世界全体を見えなくなる

恋人や結婚相手、好きな歌手やタレントや、好きな作家などがいて、その好きだった人の姿や作風が変わってしまうと、劣化したとか批判されることがある。

好きだったものが変わったしまったことを悲しむのは当然だ。

 

しかし、もし彼が哲学者であるなら、1人の人物の1つの姿に執着してはいけない。

なぜなら、世界に対する別の見方が見えなくなるからだ。

世界の一部の見え方しか見ることができず、他の世界の姿が見えなくなる。

変化に対して、新しい世界の相貌を受け止める忍耐力が必要だ。

 

例えば、好きだった恋人や結婚相手が変わってしまい、幻滅することはよくある。

しかし、哲学者であるならば、幻滅するだけでなく、その残酷な変化や、新しい世界の見え方をじっくりと味わう必要がある。

 

世界を百面鏡で受け止めるのだ。

それは1つの冒険であり、探求だ。

危険な遊戯である。

 

ある人物の姿や性質が変わってしまって、幻滅しても、別の観点からは称賛されることもありえる。

 

例えば、髪型やファッションが変わってしまって、幻滅しても、別のオシャレの基準から見れば、むしろ進化していることがある。

 

「昔はよかったのに・・・」と幻滅するとき、その変化は別の世界観を知るチャンスであり、世界に対する自分が知らなかった新しい観点を提供してくれている。

 

世界の1つの姿だけに執着していては、世界を正確に知ることができない。

だから、もし哲学者であるならば、できるだけ多様な世界の姿を見るように努めるだろうし、1人の人物や1つの物だけに執着しないだろう。

 

1つの価値基準だけを愛することは、人間としては普通のことだが、哲学者になるならば、1つの観点だけに固執してはいけないのだ。

ニーチェが言ったように、世界を百面鏡で受け止めなければならない。

このことを、中島義道は「理不尽な世界を味わい尽くす」と表現している。

この世界を骨までしゃぶり尽くすのだ。

 

それは決して楽なことではないし、辛いこともあるだろう。

だから、多様な観点で世界を眺めることは、ある程度の勇気と忍耐力を必要とする。

 

人は、他の人の価値観を正しいと信じやすいし、他の人が評価する価値基準に洗脳されやすい。

だから、哲学者は、あえて自分が気にくわないことや、不快なものの視点から、物事を見る訓練をすることが大切だ。

 

自分が反対したくなる考え方、嫌いな趣味、好み、価値観から、あえて世界を眺めて、その視点から見た世界の相貌を味わう。

すると、案外、違った良さや優れたところが見つかることがある。

 

人は、前提から結論を導くが、その前提をあえて疑い、違った前提を考えることによって、違う結論を導くことができる。

前提を疑って、違う考え方や観点を得る活動のことを、古代ギリシャではディアレクティケー(哲学問答法)と言った。

つまり弁証法である。

 

もし哲学者であるならば、ディアレクティケーをしなければならない。

自分が嫌いなもの、不快に思うもの、興味がないもの、理解できない評価基準、そういったものを前提にして、世界を見ることで、世界に対する別の真実が浮き彫りになる。

 

1つの価値基準を否定して別の前提で世界を眺めることによって、新しい結論を得られること、それが弁証法・ディアレクティケーの活動である。

それは自由の精神である。

 

古代ギリシャ人は、真理のことを、アレーテイア(包みなく現れていること)と呼んだ。

1つの観点しか見ないと、別の真理を隠蔽してしまう。

1つの見方だけでは、別の観点が見えなくなる。

 

1つの真理は、別の真理を隠蔽する。

それが古代ギリシャ人が注目していたことである。

例えばギリシャ悲劇は、このことを繰り返し表現している。

 

人は、ウソによって騙されるだけではない。

真理によって騙されるのだ。

 

哲学者であるならば、この古代ギリシアの精神を忘れてはならないのだ。

ニーチェが言った「超人」とは、まさにこの精神である。