田中たかあきブログ

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若者言葉は新しい観点を発見するイノベーションだ

若者言葉が軽薄だというのは趣味の違い

「ヤバい」を使うか、軽薄で汚い言葉かどうか、は人それぞれ

例えば、「ヤバい」と言う言葉は、軽薄だとか、語彙力が乏しい、貧しい日本語などと批判されることがある。

 

しかし、これは単に各人の趣味の違いにすぎない。

その理由は2つある。

第一に、軽薄かどうかの基準や、乏しい語彙力の定義は人によって違うからだ。

第二に、「軽薄な言葉や汚い言葉を使ってはいけない」という規範は、あくまで1つの価値観であり、そのルールを守って言葉を使うかどうかは人それぞれだからだ。

 

例えば、具体的な表現のことを、「豊かな表現」と定義して、具体的な表現を好む人は、「ヤバい」という言葉に対して、軽薄だと批判するだろう。

そして、「軽薄で汚い言葉は使うべきではない」という規範を持っているから、「ヤバいという言葉など使ってはいけない!もっと綺麗な言葉を使いなさい!とのたまう。

あるいは、「最近の若者の言葉は語彙が貧弱が汚い。美しい日本語を復活しなければ!」とのたまう。

 

他方、ヤバいと言う言葉を使う若者は、具体性の低い言葉に対して、嫌悪感などない。

具体性の乏しい言葉を、軽薄だとも思わないし、貧しい語彙力だとも思わない。

軽薄とか貧しい語彙、という定義や基準が違うのだ。

 

また、「軽薄で汚い言葉づかいをしてはならない」という規範も持っていない。

そんなルールなどに従って生きていないし、自分たちが好きな言葉を使うだけだ。

 

このように、「その言葉遣いは軽薄だ!もっと豊かで美しい言葉を使え!」という人と、その言葉を使う人の間には、価値観や趣味の違いがある。

この溝は、高確率で埋まらない。

 

「ヤバい」は抽象度の高い言葉

ヤバい、という言葉は、すごいとか、かわいい、おいしい、怖い、危ない、など、さまざまな言葉の共通点や本質を抜き出した、抽象度の高い概念なのだ。

抽象度を高めると、具体的な要素は減らして、共通点や本質を残す必要があるから、人によって、具体性が少なくて軽薄だ、と思えてしまうのだ。

 

つまり、「ヤバい」を嫌う人は、抽象度の低い言葉が好きなのだ。

具体的な表現が好きなのであり、抽象度の高い言葉が嫌いなのだ。

だから、「ヤバいという若者言葉は下品で軽薄で語彙が貧しい!」と批判するのだ。

 

他方、ヤバいという言葉を好む人は、抽象度の高い言葉を好むのだ。

具体性の高く抽象度の低い言葉よりも、具体性が少なく抽象度が高い語彙を好む。

 

抽象度の高い言葉を好む趣味を持っているのか、抽象度の低い語彙を好む趣味なのか。

その価値観の違いがあるだけだ。

 

だから、「ヤバいなんて汚い言葉使うな!もっと豊かな語彙を使え!」と命令するのは、自分の趣味を他人に押しつけているのだ。

「ピーマンはおいしいよ!体にいいんだよ!だから食べろ!」と他人に強要するのと同じである。

別にそれが絶対に悪いことだとは言えない、ただ価値観の強制ではある。

 

若者言葉は独自の意味のネットワークを持つイノベーション

ヤバいとか、神対応とか、炎上、などは、大げさな表現だと批判されることがあるが、これらの言葉は、今までの言葉とは違う、独自のネットワークを持つ言葉だ。

したがって、豊かな語彙と言ってもよいのだ。

そもそも、大げさな表現だって、豊かな表現の一部だろう。

 

独自の意味連関を持つ私的言語をもっと開発していけば、ますます語彙は増える。

若者言葉は批判されがちだが、それは異質なものだからだ。

人は、自分たちの価値観と違う異質なものを排除したくなるのだ。

 

しかし、新しい私的言語は、今までと違う独自の観点から、物事を意味づける色メガネ

である。

新しい言葉は、新しい見方であり、新しい意味を発見することである。

 

イノベーションは、人々から不審の目で見られがちである。

異質なものは、排除されがちだ。

イノベーションは、過去のものを否定して、それに代わる新しいものを提案することが多い。

何かを否定して、新しいものを生み出す過程を、弁証法と呼ぶ。

新しい言葉は、弁証法であり、らせん階段を上がるようなものだ。

 

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新しい私的言語は、その独自の意味連関によって、世界を新しい観点から見ることができる。

そして、一部の私的言語は、やがて公的な言語になっていくだろう。

 

若者言葉や新しい言葉は、イノベーションであり、新しいパースペクティブの発見である。

独自の意味ネットワークを持つ新しい言語、それが世界に対する斬新な展望を与えるのだ。

 

私的言語をどんどん開発し、新しい意味のネットワークを発見すれば、思ってもみない真理が浮き彫りになるかもしれない

今までの言葉によって隠蔽されていた、別の意味が存在するかもしれないのだ。

 

過去の言葉は、忘れ去られた観点を教えてくれる

逆に、過去に使われていた古い言葉を学ぶことで、現代に忘れ去られた観点を発見できる。

ラテン語や古典ギリシャ語などの古典語を学ぶ意義はそこにある。

 

温故知新というのは本当で、過去の語彙表現を学ぶことで、忘れ去れらた伝統が復活するのだ。

古い言葉を学ぶことによって、忘れ去られたパースペクティブを想起できる。

 

過去の言語表現によって、現代の言葉使いがイノベーションされることだってある。

むしろ、現代の流行り表現や流行の若者言葉が、実は過去の言語表現を復活させたものかもしれない。

若者言葉が、過去の伝統を復活させるのだ。

 

世界は百面相なのだ。

真理を知りたいなら、百面鏡で受け止めなければならない。