田中たかあきブログ

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自分で理由を生み出す者が神、という共通の思想

デカルト、ライプニッツ、ニーチェの共通した答え

絶対に疑えない前提や根拠は何か?という問いに対して、デカルトとライプニッツとニーチェは、同じ答えを出している。

その答えとは、自分自身が根拠になるということであり、自分自身で前提を生み出せる自分こそ、物事の前提になりえる、という考え方である。

 

それについて以下で詳しく説明しよう。

 

絶対に疑えない根拠は何かという問いを立てたデカルト

物事の前提や理由や意味や根拠を問う作業は、昔から繰り返されている。

例えば17世紀にルネ・デカルトは、物事のあらゆる前提を全て疑ってみた。

数学やいろんな学問の前提になっていることを疑ってみて、絶対に疑えない確実なことを探し、真理の絶対的な土台を見つけようとした。

 

デカルトは、絶対手に疑えないのは、「考えている私」だと結論を出した。

「私」という存在こそ、絶対に疑えない前提であり、根拠であると。

 

自分自身が根拠である存在が神だ、と言うライプニッツ

絶対に疑えない確実な前提は何か?というこの難問に対して、ドイツのライプニッツは1つの答えを出した。

あらゆる物事の最終的な根拠は、神である。

彼はそう考えた。

物事の理由や根拠は何かと問うでいくと、無限に続いていってしまって、終わりがないように思える。

 

物事の理由が無限に続くのはマズイと考えたライプニッツは、絶対に疑えない前提として、神を持ってきた。

これがライプニッツの根拠律という考え方である。根拠律は、デカルトの問いへの1つの応答なのだ。

 

最終的な根拠が神であるということは、どういう意味か?

それは、自分自身で根拠や理由を生み出せる存在こそが、神であるということかもしれない。

ライプニッツにとっての神の定義は、自分自身が根拠である存在、自分で理由や前提を生み出せる存在なのかもしれない。

 

自分自身で基準を打ち立てる神々と超人

もしそうなら、ライプニッツの定義する神は、ニーチェが「神々」と呼ぶ存在や、超人に似ている。

なぜなら、ニーチェが言う神々とは、他人の欲望ではなく自分自身の欲望であるからだ。

他人が「こうすべきだ」と命令する基準ではなく、自分自身で生み出した基準、それが神々である。

 

ニーチェは、「神は死んだ」と言ったが、「神々」は生きているのだ。

ニーチェの定義する「神」とは、他人によって決められた絶対的な基準だ。

その基準や規範は、他人に命令されたものであり、自分自身が根拠になっていない。

一方、神々とは、自分自身が欲することに基づいた基準なので、自分自身が根拠になっている。欲望は人それぞれだし、自分の中でも変化するので1つじゃないから、「神々」という複数形になっている。

 

「私はこうあることを欲する!」という意志に基づいて、様々な価値基準を渡り歩く者は、超人であり、神々なのだとニーチェは言う。

つまり、自分自身で根拠や理由を生み出す者が、超人であり神々なのだ。

 

それゆえ、ライプニッツの定義する神という概念と、ニーチェが「神々」とか超人と呼ぶ概念は、似ている。

共通点は、自分自身で根拠を生み出す存在者である。

だから、この考えは、デカルトの「私という存在は疑えない」という発想とも似ているのだ。

 

自分自身が根拠となり、自分自身で根拠を生み出す存在こそが、最終的な根拠であるという発想。

この点で、デカルトとライプニッツとニーチェは、同じような考えをしていると言えるだろう。

 

前提、私、神、これらの概念の連関がわかる。

永井均の『私、今、そして神』という本のタイトルの意味も、同じような意味だろう。

永井が言う、「開闢」という概念も、物事の前提になっている存在者のことであり、それは自分自身であり、それが神だという発想である。

 

さて、では私とは何だろう?

自分とは何だろう?

そもそも世界とは何だろう。

前提とは何だろう。

 

そして、「~とは何か」という問いは、どういう思考なのだろうか?